NOVEL-LIFE

最終話「取り戻した心」

「おはようございます」

その翌日、いつものように美也子は出勤して自席についた。

いつもの職場、いつも顔を合わせている同僚たちと、周りにあるものは何も普段と違いはないものの、心做しか少しだけ心が軽く感じられるような気がしていた。

きっと、これまで美也子の心がとらわれていた『本来のものではない価値観』を認めて受け入れたことで、心の中にあった重さが軽減されたのだろう。

そこに何事かがあるのに、それをなかったことしようとしていたことは、無意識のところで美也子の心に負担になっていたのに違いない。

「へえ、可愛いねー!」

「でしょ? こっちにももっと写真あるよー。はい」

突然感嘆の声が上がり、美也子はちらりとそちらに目線を向ける。麻理子と智子、松田がそれぞれ手にしている写真に見入っていた。

美也子はちらりとそちらに目を遣ると、すぐに再びパソコンの画面に視線を戻す。

業務開始前の同僚たちの和やかな会話、何でもない雑談、どこにでもある、ありふれた風景がそこにはある。

しかし、美也子にとっては、それがまるで『スクリーンの向こうにある光景』のような違和感を未だ覚えていた。『自分はその光景の一部ではない』という感覚が拭えない。

とはいえ、もし美也子が幼少期を違った過ごし方をしていたらどうだったのだろうか?

違和感なく目の前の風景に溶け込むことができていたのだろうか?

仮に、もしそうだとしたなら、今まであまりに本音がない状態で他人と接してきたために、それが他人との隔絶間を生むようになったということだろう。

本音を隠し表面を取り繕うばかりでは、人と仲良くなりようもないのだから。

だが、そうでなかったとしても、麻理子や智子とは親しい友人にはならなかっただろうという気もしていた。普通に楽しく会話はできたとしても、特別に親しい友人にはならなかっただろう。何となく、そんな感じがしていた。

そこで、美也子はふと思い付く。

では、自分はどんな人とならば親しく付き合っていたのだろう? 今の美也子はどんな人と親しくなりたいと思うのだろうか?

――私が仲良くなりたい人……。付き合いたい人……?

今まであまり考えてみなかったその発想に、どこか不思議な感じがした。

「楠さーん」

美也子が考え事に耽ろうとしたその時、麻理子が美也子に声を掛けた。

美也子は自分への呼びかけの声にハッとして声の主のほうを向く。

「楠さんも写真見る? 谷口さんの赤ちゃん。週末に福ちゃんと遊びに行った時に撮ったんだけど、可愛いよー」

麻理子にそう言われ、美也子は麻理子の手にある写真をのぞいてみる。

すると、智子がそういえばといった感じで言った。

「あれ、楠さんは谷口さんのこと知らないんじゃない?」

「ええ。名前は聞いたことありますけど、会ったことはないですね」

「そっか。谷口さん辞めたの楠さんが来るよりも前だったもんね。でも、谷口さん知らなくても、赤ちゃん可愛いでしょ?」

写真には、谷口さんと思われる女性が笑顔で赤ちゃんを抱いているところが写っている。

「そ……」

「あれ!? 谷口さん?」

美也子が答えを返そうとしたところで、達也が後ろから話に割って入ってきた。

「あ、中川さん。おはようございます。そうです。週末に谷口さん家に遊びに行ってきた時に撮ったんです。あ、こっちにある写真も見ます?」

「おお。……へえ、彼女元気そうだなあ! そうかあ、谷口さんももう立派な母親か……」

達也は智子から写真の束を受け取ると、一枚一枚見ながらしみじみとそう言った。

「そうですよ。中川さんももっとしっかりしないと、このままじゃ結婚できませんよ」

「いや、俺はちゃんと考えてるんだって。理想のプランがちゃんとあるんだよ」

ちょっと意地悪そうに智子がそう言うと、達也が力説するかのようにそう言った。

「えー、ほんとですか?」

「しつこいなあ。今だってちゃんと良い上司やってるだろう? いつだって皆のこときちんとサポートしてるだろう? なあ、楠さん」

「……え、は、はい」

突然話を振られた美也子は、ドキドキしながら答えた。

「中川さーん、楠さんに無理に言わせちゃ駄目ですよ」

「違うって。無理に言わせてないよなあ! 本当のことだよな?」

達也は美也子の目を真っ直ぐ見ながら、そうストレートに美也子に問いただす。

「……ええ。中川さんは理想の上司だと思います」

美也子は達也の勢いに思わずクスクスと笑いながら答えた。達也のストレートな物言いが心地よかったのもあったかもしれない。

「……ほ、ほらー」

しかし、美也子の答えが予想外だったのか、達也は軽くたじろいだ様子でそう言った。

「いやいや、楠さん笑ってるじゃないですかー。中川さんがプレッシャー掛けるから話を合わせてあげただけですよ−」

そんなやり取りをしつつ、皆が微笑ましく写真を眺める。

「しかし赤ちゃんの笑顔っていいなあ」

「ほんと、見てると癒やされますねー」

しかし、口々に感想を言いながら写真に見入る同僚たちの中にいながら、美也子はちくりと胸が痛むのを感じた。

その日の昼休み。

美也子はいつものカフェに行き、軽く昼食を済ませると、コーヒーを飲みながらぼんやり考えていた。

――これから私は一体どうなっていくんだろう?

朝、就業前に皆で写真を見ている時に感じた胸の痛みを思い出す。

誰もが当たり前のように微笑ましく眺めていた親子の写真。それがまるで人生の幸せの象徴かのように思っていたに違いない。そして、麻理子や智子、達也も、誰もが当然のこととしてこの先結婚や出産というものに向かっていくのだろう。

だが、美也子にはそのすべてが遠くにあるもののように感じられた。

そもそも、誰かと近い距離になることですら遠いことのように思える。心理的な隔てなく、心から誰かと笑い合えることなんてあるのだろうか?

それどころか、今は誰かと一緒にいると、その中に映る自分自身を見ることが怖くすらある。

だって、そこに本当の美也子がいるはずがないのだ。そこにいるのは相手が勝手に作り上げた、その人のイメージの中の美也子でしかない。

だから、それを見るたびに胸が痛む。そして、『そんなのは偽物だ、本当の自分はここだ!』と、心の奥で叫ぶ声が聞こえるような気がして苦しくなるのだ。

――……でも、本当の自分って何だろう?

美也子自身ですら、それがどんなものかよく分からなくなっている。

しかし、一つ言えることは、今の美也子は他人と同じ尺度で物事を見てはいないということだろう。

子どもの頃からの、自分不在の状態で過ごす中で、嫌というほど感じた孤独や違和感。その中を通り抜けてここまで来てしまった。その経験を無視してこの先を生きることは難しいだろう。

でも、それで良いのかもしれないと、美也子は思った。

だって、周りと同じように振る舞い、同じような生き方を目指すことに、何の意味があるのだろうか? そこから得られるものはほとんどないと今までの時間の中で知ったはずだ。

人と同じことをしようとすれば、結局また自分を無視することになるだけなのだ。もう、自分が不在のままで現実をやり過ごすのは止めなければ。

今は、これで良いのだ。これしかないのだから。

自分の心が『今ここ』にあること。そのためには、過去にとらわれていても、未来を気にし過ぎてもいけない。他人の目や意見に振り回されてもいけない。

いつも自分自身の本心を選ぶことだ。すぐにはすべてが変わらなくても、少しずつでも良い。自分を取り戻すために、それを続けていこう。

そうすれば、その先には、仲良くなりたい人、そこにいたいと思える場所……、自分の居場所を見つけ、たとえ人と同じ形ではなくても、自分だけの幸せを見つけることがきっとできるだろう。

美也子はそう確信した。

そして、コーヒーを飲み終えると店を出る。

真昼の明るい日差しと透き通るような空の青さの下、オフィスへと戻る道を歩いた。

きっと、明るい日差しときれいな青い空が景色を引き立てているのだろう。歩きながら目に映る景色は、ちょっとだけいつもよりも鮮やかなような気がしていた。

世界が色鮮やかに輝いている。それは、まるで美也子が前向きな心を取り戻したことを祝福しているかのようだった。

目に映る鮮やかな景色の中で、自分がまさに『今ここ』にいることを感じながら、美也子はオフィスまでの道を歩き続けた。

この小説を書いた人

柴門 依里(さいもん えり)というペンネームで小説を発信、Web作家としても活動しているブロガー。「自分らしさを活かした豊かな生き方を実現する」ことをテーマにしたブログでの情報発信、小説作品を執筆中。

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柴門 依里の作品

コンプレックスや自信の無さ、過去の思い出。

ネガティブな思いに振り回されながら自分らしい生き方を模索する現代女性を主人公に、心理的な変化や成長を描いた物語。

「不器用でも、いつも自分に正直でいたい」

そんな願いを持つ女性たちにお届けしたいストーリーです。