NOVEL-LIFE

第2話「恋の始まり」

あれは美也子が職場に来てすぐのことだ。

初日に出勤した美也子は、まずは部長の東山からオリエンテーションを受けた後、ヘルプデスクの面々に挨拶をして回っていた。

コールセンターは、他の部署とは区切った専用スペースになっている。

東山に案内されセンターに入ると、自席に荷物を置き、東山の後について端の列から順にスタッフ一人ひとりに挨拶をしていく。

「彼女、今日からA社を担当してもらう楠さん」

東山がその列の座席で業務をしている皆に向かって美也子を紹介する。

「楠です。よろしくお願いします」

それを受けて美也子はそう言って丁寧にお辞儀をした。

「で、彼は坂田くん、隣が津山くん。その隣で今応対中の彼は加藤くん」

「よろしくお願いします」

紹介を受けた坂田と津山が軽く頭を下げながらそう言った。

「それじゃ、次はこっちね」

東山に連れられて、そのまま次の列へと歩いていく。

同じ調子でしばらく同じやり取りが繰り返された。

センター全体の人数はそれほど多くはないので、挨拶まわりは長くは掛からない。とはいえ、今ここで皆の顔と名前をすぐに覚えられそうにはない。

こうやって一人ひとりに紹介してもらえるのはありがたいが、挨拶をした次の瞬間にはもうすべて忘れてしまいそうだと、美也子は内心で変なことが気に掛かっていた。

挨拶回りも終盤に差し掛かった時、達也がちょうどセンターに入ってくる。それを見つけた東山が達也を呼び止めた。

「中川」

「はい!」

達也が返事をしてこちらにやってくる。

「彼女、今日から入った楠さん。A社の案件担当してもらうから、検証機とか後で説明してあげて」

「了解です」

東山の依頼に達也が了承すると、次に美也子に向かってこう言った。

「楠さん、彼が中川くん。後で検証機とかマニュアルとか彼に渡してもらうから」

「はい、分かりました」

部長にそう答えると、達也のほうに向き直ってお辞儀をしながら挨拶をする。

「楠です。よろしくお願いします」

美也子がそう言うと、達也はこう返してきた。

「……楠さんって名字珍しいですね。出身どこなの?」

初対面の美也子に対しても、当たり前のように気さくに話しかけてきたことに美也子は一瞬面食らいつつも問に答える。

「……東京です」

すると、そのやり取りを見ていた部長が鬱陶しそうにこう言った。

「中川、余計なこと言わなくていいから。さっさと検証機用意してこい」

「すいません」

達也は苦笑いしながら東山に謝ると、美也子のほうを向いて満面の笑顔でこう言った。

「それじゃ、楠さん、後で検証機持って行くんで。ちょっと待ってて」

それは、パッと花が開いた瞬間を思わせるような明るい笑顔だった。美也子は、その時の達也の笑顔を目にした瞬間、時が止まったかのような感じがした。

裏も表もないような明るく屈託のない笑顔。

この時、美也子の目には達也の笑顔が他とは違って映っていた。

まるで周りに明るいオーラでもまとっているかのような、周囲の景色の色さえも変えてしまったかのような、世界の中心をそこに持ってきたような、力強く輪郭のはっきりとした明るい笑顔。

――こういう笑顔、私好きかも……。

美也子は、達也の笑顔に惹かれるものを感じたことが自分でも分かった。

この時から、美也子の密かな恋心が芽生えたのである。

職場に好きな人がいる。そして、職場で好きな人に毎日会える。それは状況によっては、幸せなことかもしれない。

だが、美也子にとってはそうではなかった。

達也が近くにいるだけで、どうしても気になってしまい、仕事に集中できくなってしまうのだ。仕事の会話をする時だけでなく、朝礼で達也が連絡事項を伝達する時には、顔を上げて達也の姿を見ることすらもためらわれるほどである。

『ちょっと気になる人』『憧れの上司』くらいの存在ならば良かったのだろう。だが、一目惚れの衝撃とともに好きになってしまった相手なだけにどうしようもない。冷静を装おうとはしつつも、心の中ではドキドキとしてなかなか平静になれない。

そんな悩ましい状態が、入社してから数ヶ月ほど続いたのである。

それでも、業務の中心が電話応対なのが美也子には幸いした。電話応対中は、そちらにきちんと意識を切り替えることができたからである。そして、応対のほうに意識を集中させているうちに、自然と達也のことは頭を離れていき、業務に集中する時間を持つことができたのだ。

美也子は、電話応対の仕事が好きだった。

問題解決をしてお客様から感謝される……などのやりがいがあるというのもその理由だが、美也子にとっては、まったく別の理由もあった。

電話の向こうにいる相手の話に耳を傾けていると、そこだけの小さな別世界にいるかのような感覚になれるからである。今美也子が実際にいるコールセンターという現実とは別の世界に、一時だけ身を置いたような気になれたのだ。

そんな感覚を覚えるのは、美也子が自分の身近にある現実に、どこか相容れないものを感じているためだった。

この小説を書いた人

柴門 依里(さいもん えり)というペンネームで小説を発信、Web作家としても活動しているブロガー。「自分らしさを活かした豊かな生き方を実現する」ことをテーマにしたブログでの情報発信、小説作品を執筆中。

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柴門 依里の作品

コンプレックスや自信の無さ、過去の思い出。

ネガティブな思いに振り回されながら自分らしい生き方を模索する現代女性を主人公に、心理的な変化や成長を描いた物語。

「不器用でも、いつも自分に正直でいたい」

そんな願いを持つ女性たちにお届けしたいストーリーです。