NOVEL-LIFE

第6話「『今ここ』にない心」

「はあ……」

その日の夕方。仕事を終え自宅に戻った美也子は、ソファに横たわり大きくため息をつく。その日の昼からずっと心を覆っていたモヤモヤとした感情に疲れ切っていた。それは、同僚たちとのランチの後味の悪さから来ているのだろう。

和気あいあいとした雰囲気で終始していた同僚たちとのランチだったが、そんな楽しげな空気感も、美也子の心の違和感を強くしたに過ぎなかった。

(私、一体何やってるのかな……?)

昼休みのことを思い出しても、そこにはただ虚しさだけしかない。

楽しい場の雰囲気も、人々の笑顔も、そこにまるで現実味を感じないのだ。

こんな風に『今ここ』に現実味を感じなくなったのは、一体いつからだろうか? 美也子はぼんやりと考えた。どこにいても、自分はそこに存在していない。そんな感覚ばかりがある。

「カチ、カチ、カチ……」

静かな部屋の中を、時計の秒針が進む音が小さく響く。美也子は、一定のリズムを刻みながら時を進める壁掛け時計のほうに視線を向けた。

時刻は午後7時になろうとしているところだ。

「……はあ」

いつまでも横になっていても時間は過ぎていくばかりだ。ちょうどお腹も空いたところだし、そろそろ夕食にしようと、再びため息をつきながら美也子はむっくりと起き上がる。

そして、作り置きを温めて簡単に夕食を準備すると、小さなローテーブルに運ぶ。ついでにテレビを付け、適当にチャンネルを回してみる。だが、一通りチャンネルを回したところで、見たいものが見当たらないと分かるとすぐに電源を切った。

一人きりの静かな部屋の中、美也子は黙々と箸をすすめる。ここは静かで、何も意識を乱すものもない。

一人心穏やかに食事ができる。

そのはずだった。

しかし、黙々と箸をすすめるうちに、美也子の頭の中には、ぼんやりと遠い記憶が巡り始めていた。

自分から意識して思い出そうとした訳ではない。まるで無意識でいる心のすきを突くかのようにして、その記憶はやってきたのだ。

美也子は箸をすすめながらも、勝手に頭の中で再生されるその記憶の映像をぼんやりと眺めた。

「Happy birthday to you〜」

わざと照明を落とした薄暗い部屋の中で、両親がいつになく機嫌良さそうな笑顔でバースデーソングを歌っている。

家族でテーブルを囲み、そこにはバースデーケーキが置かれていた。ショートケーキのホールというよくあるタイプのバースデーケーキだ。暗い部屋の中、ケーキの上に並んだローソクの火が周辺の一角を明るく照らしている。

そして、バースデーソングが終わると、両親に促されてローソクの火を吹き消す幼い日の美也子。「おめでとう!」という言葉とともに湧き上がる拍手。

それは、一見すると、幼い子どものいる家族の幸せなひとときの時間である。

だが、この時主役であったはずの美也子の心は、見た目のような幸せなものではなかった。

どちらかと言うと、妙に居心地が悪い。目の前で展開されている現実はちぐはぐで、どことなく受け入れ難く感じられた。

目の前にいるのは両親で、自分の誕生日を祝っている。

とはいえ、普段の両親との関わりとの『ギャップ』からして、美也子はそれが事実だと受け入れられはしなかった。

この人たちは、本当に自分の誕生日を祝っているのだろうか? これは、本当に自分の誕生日を祝うための時間なのだろうか? 無意識のうちに、心の奥で湧き上がる違和感。

だが、そんな美也子の心は置き去りにして、幸せな家族の演出だけが目の前で繰り広げられる。誰も美也子の心の違和感に気付きはしない。

珍しく自分の前で笑顔を見せる両親に、殊勝に愛想笑いを振る舞いながら、美也子はまるで『おまけ』のように、そこに座っていた。

美也子は、思い出した過去の記憶に心を曇らせながらも、何事もなかったかのように夕食を平らげる。

とはいえ、せっかくの食事も、余計なことを思い出したせいで台無しになってしまったような気もする。そう、内心愚痴りながら食器をキッチンに運ぶ。

そして、スポンジに洗剤ををつけ、洗い物を始めた。

淡々と洗い物を進める美也子だったが、そんな単純作業を繰り返す間にも、再び過去の記憶が頭を巡り始めた。

「お母さーん! ねえねえ、これ見てー!」

そこには、画用紙を片手に洗い物をしている母親にまとわりつく幼い美也子がいた。これは5〜6歳くらいのころだろうか。

だが、無邪気に自分をアピールする美也子に対して、忙しい母親はまるで相手にはしない。

「うるさい! あっち行ってなさい!」

そう一喝されるだけだった。

共働きの美也子の母親は、確かにいつも忙しそうにしていた。共働きも今では珍しくも何ともないとはいえ、主婦とはすることはたくさんあるものだ。忙しさで余裕がなかったのかもしれないし、それは仕方がないことだったかもしれない。

しかし、まともに話を聞いてくれたこともなければ、自分のことに何も興味を示したこともない。それに、子どもである自分の目線に合わせて会話をしてくれたこともない母親に、美也子は『自分が受け入れられている』という安心感を感じられたことはなかった。そして、それは父も同じだ。

父も母も、普段まともに美也子を相手にしたことはない。きっと、この人たちは自分を嫌っているのだろう。美也子の心の奥底には、幼いころからそんな思いがこびりついていた。

だが、二人が時折見せる『優しい両親』ぶりが美也子を混乱させた。

誕生日だからとバースデーケーキを前に、まるで普段から仲良し親子だったかのようにお祝いされる。突然優しい両親に豹変した二人を前に、そんなの嘘だとしか思えないのは無理もないことではないだろうか?

理解し難い現実に戸惑いながらも愛想笑いを浮かべる娘の気持ちを、まったく想像すらしたことはなかったのだろうか?

勝手に流れていた過去の記憶の映像に、美也子の何とも言えない怒りの感情が交じり始めたその時だった。

「ガシャーン」

気が付くと、買ったばかりのスープ皿が床に落ちて、見事に割れていた。

過去の記憶に気を取られて、うっかりと手を滑らせてしまったようだ。

(あーあ……、これ気に入ってたのに……)

何とも言えない虚しい気持ちで一杯になりながらも、割れた食器の破片を片付け始めた。

この小説を書いた人

柴門 依里(さいもん えり)というペンネームで小説を発信、Web作家としても活動しているブロガー。「自分らしさを活かした豊かな生き方を実現する」ことをテーマにしたブログでの情報発信、小説作品を執筆中。

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柴門 依里の作品

コンプレックスや自信の無さ、過去の思い出。

ネガティブな思いに振り回されながら自分らしい生き方を模索する現代女性を主人公に、心理的な変化や成長を描いた物語。

「不器用でも、いつも自分に正直でいたい」

そんな願いを持つ女性たちにお届けしたいストーリーです。